今すべてのアーティストも発言し行動を起こさなければなりません。
私はそう思います。
原発は経済問題と捉えられる場合が多いですが、それ以前に、人、自然、動物、犬、猫、花、魚、虫、生きとし生けるもの全ての命の尊厳、そして人の良心や思想、哲学にも関わる問題です。これらは古くからの芸術/アートのテーマです。
経済問題や社会問題は芸術/アートとは違うフィールドだとして原発に対して発言をしないアーティストもたくさんいます。しかし、3.11の原発事故により、日本に住めない場所が生まれ、風や食物や瓦礫の移動によって放射能汚染がじわじわと全国に広がり続けている現在、それは狭い経済の問題をはみ出し、すでに私たち自身の生死に関わる個人の問題となっています。これを無視することは逃避でしかありません。個人の視点から世界をとらえ、未来へのヴィジョンを創造することが芸術/アートの主眼だったはずです。
ではアートに何ができるのか?
難しいことは何もありません。政治や経済、科学的な知識もとりあえずはいりません。今立たされているこの場所から、感じたままのイメージと声を、無垢な小鳥のように発すればいい。それらの総体が日本の現在を描くことになります。思い思いの形で今の日本とその状況に対する恐れと怒りを表現する。それ自体が現状に対する批評になります。そして、すべての人が怖がらずに表現ができるように、アーティストが〈自由な表現〉のお手本を示さなくてはならない時です。すべての人が表現者になれば世界は変わるでしょう。
皆が何かを恐れて自分の本当の気持ちを飲み込み続けた結果、今日本には54基の原発が建ってしまいました。誰もが自分の本当の気持ちを表現することができるように、そのための勇気を、アーティストは人々に与えることができるはずです。
アートとは見えないものを見える形にすること。個人のヴィジョンを描くこともアート、見えない世界を様々な視点から描いて見せることもアート、そのままでは見えづらい小さな声を集めて見えやすい形にして社会に問い返すこともアート、〈勇気〉という眼に見えないものを人々に与えることもアート、そう考えるならば、反原発デモもアートなのです。
イノチコアは、命の表現を目指します。
原発事故は悲しい出来事でした。だからこそ、それを経験した私たちは、もう一度、命の尊厳と自然の大切さを世界中に向けて語らなければなりません。
現代美術家 石川雷太
初めまして。私は東京都から大阪府へ母子避難している主婦です。事故当時、娘は生後十ヶ月、息子は三歳でした。あれだけ酷いと思っていたチェルノブイリ原子力発電所事故当時のソ連政府の対応より、今の日本政府の対応の方が酷いことに気づき、避難を決意しました。
夫には、この一年殆ど会えていません。二重生活で貯金に手をつけてしまい、交通費が捻出できないからです。
娘は夫の知らないうちに、あんよができるようになり、お喋りができるようになりました。
夫は、この歳でもう転職は出来ないと言い張り、東京に残って仕事を続けています。
子供たちはパパが大好きで、数ヵ月ぶりに会うと、泣きながら抱きつき、泣きながらサヨナラします。
3.11までの私たちの穏やかな日常は、二度と戻っては来ません。
家族が一緒に居られることは当たり前ではなく、とても素晴らしく幸せなことだったんだとわかりました。原発さえなければ、私たち家族は、離ればなれにはならなかったはずです。
今まで無知で無関心だった自分を許せません。
原料のウランを採掘する段階から、労働者の被曝ありきで作らていれる電気。
何か間違っていると思いませんか?
その労働者が、自分の愛する人だったら…そう考えたことはありませんか?
大好きな人と一緒になって、やっと授かった小さな小さなイノチ。
何をしていても気持ちの悪い悪阻や重いお腹。風邪をひいても薬が飲めないなどの、想像していたよりもキツイ妊娠期間を経て、人生で初めて経験する激痛の末、やっと会えた甘い匂いのする、自分にそっくりな小さい小さい赤ちゃん。
すやすや眠る赤ちゃんの、呼吸が止まっていないかと心配になって、何度も鼻息を確認したり、ふにゃふにゃ力無く泣かれたら、どこか具合が悪いのではないかと、必要以上に心配になったり。
その笑い声が、鳥のさえずりのように、とても心地よく聞こえたり。
ほとんど全ての大人が、過去にはそのような思いで、母親に育てられてきたことを、私はやっと知りました。無償の愛とは、こういうことなのかと。
自分が嫌いなあの人も、誰かの大切な赤ちゃんだったんだと。
だから、誰かの犠牲が無いと、作ることのできない電気なんて、私はいりません。
原発には、反対です。
デモなんて正直言ってすごく苦手でした。特殊な人だけがやっているというイメージを持っていました。
でも、今は、避難者である私が、声をあげるしかないと思っています。
原発さえなければ、夫は、わが子の可愛い時期を、離ればなれで暮らすことも無かったのです。
初めてたっちした時の笑顔とか、ヨチヨチ歩きの可愛らしい仕草とか、全て夫は、見ることが出来ませんでした。
夫は、私たちの居なくなったガランとした部屋で、寝ては起きて、ただ仕事に通っているのです。たった一人で被ばくをしながら。
忙しい夫の、唯一の楽しみだった、子供たちの寝顔を眺めることも、今はもう叶わないのです。
でも、それでも数年後、子供たちが被曝由来の病気になるよりは、ずっとマシだと思って我慢しているのです。
私は、彼の人生が不憫でなりません。
私はこれから、どうしたらいいのかわかりません。今の母子避難生活が正解かどうかもわかりません。
一年がすぎて、避難ママの中でも、自宅に戻る人も沢山出てきています。
私も、毎晩これで良かったのかと子供たちの寝顔を見ながら考えています。
今の私に出来ることは何か?
この子達の未来が少しでも良くなるように、私には何が出来るのか?
……せめて、このようなことになった原因である原発を、私の代で止めておいてあげたい。
私は、そう考えるようになりました。
避難者は、企業などから支援を受けている関係で、大きな声で「原発いらない!」と、言えない人が沢山いることを知っています。
ですから、小さな声でもいいんです。帽子を被り、サングラスにマスクを着けて、顔を隠して、一緒に歩いて下さいませんか?
小さな声でも沢山の声が集まれば、それは、大きな声になります。
皆さんの、少しずつの勇気を合わせて、大きなうねりにしていきませんか?
地震があるたびに原発の様子が気になってドキドキしたり、
スーパーで何を買ったらいいのか途方にくれたり、
私の作ったご飯を、嬉しそうに口いっぱいに頬張る子供たちを見ながら、「この食べ物に毒が入っているのかもしれない…」などと、苦しい気持ちになったり、
自分の母乳が汚染されているかもと、不安でたまらなくなったり…その様な思いを、もう、他の誰にもさせたくはありません。
病気になって苦しい思いをする、子供や大人たちを出したくはありません。
子供たちの未来を明るいものにする為にも、自分の為にも、とにかくもう原発はいりません。
その一つの思いだけで繋がって、一緒に歩いてくださいませんか?
私は昨年の四月早々に仙台へ参り、最も津波被害の甚大だった海岸で、亡くなられた方々の供養と日本の加護を祈願致しました。
いつまた原発が爆発するかわからない状況でしたので、家を出る時に簡単な身辺整理をした覚えがございます。東京から仙台へ向かう数時間、ただただ御真言を呪じ福島原発の加護を念じておりました。まだ電気が復旧しきらず明かりの見えない風景の流れはとても恐ろしく、その放射能渦巻く闇の中に多くのイノチが閉じ込められている現実はあまりに絶望的でした。
先月、福島県大熊町のツバメの巣から1キログラム当たり約140万ベクレルのセシウムが検出されました。
近づかなければ人には影響が無いと環境省から発表がありましたが、当のツバメはどうなのでしょう?巣は汚染の酷い付近の田んぼの泥や枯れ草を集めて作ったとのことですから、その田んぼに住む田螺や蛙や植えられた稲や、さまざまな生き物たちはどうなのでしょう?
除染の為に剥がされ放射性廃棄物として処理される土の中にどれだけの小さなものものが生きているのでしょう?
原発による放射能によって、それこそ無数のイノチが殺され痛めつけられ、しかもそれはこれから何百年も何千年も何万年も続きます。全て、私たち人の責任です。
日本人は古代より遍く自然にカミを観ており、神道の御神体には山や滝や井戸や石がたくさんあります。密教も大自然の中に仏を観ます。どのような宗教も自然とカミとを切り離してはいないはずです。放射性物質という毒を空に海にまき散らし稼働する原発を、宗教家が認められる道理はありません。
宗教家が反原発を表明することへの風当たりは耳にします。しかしそれにより被る被害はどこまでいっても人の世の範疇です。宗教家は人の世より神仏・根源を尊ぶべきであり、たとえ社会的な立場を脅かされようと神仏をないがしろにして良い理由にはなりません。
対社会の観点からしても「あのとき日本の宗教家は何をしていたのか」と問われる時が必ず来ます。
つまりどのような立場の宗教家も、いま原発について発言し行動するべきだと私は思います。
原発事故は、イノチから離れて生きられるかの如く驕りに驕った人のゆき詰まりです。イノチに対峙し説うてきた宗教家だからこそ、遍くイノチとして一つのイノチとして生きる道に人々を引き戻すことが出来るはずです。
人には希望が必要です。そして真実をみなければ本当の希望は生まれません。イノチの問題として原発と放射能を考える指針を人々へ示せるのは宗教家だと私は信じています。
宗教家が「反原発」の表明をすることで、たくさんの力を持たぬ人々が動けます。
たくさんの傷ついた人々が救われます。たくさんの死にゆくイノチが助かります。
「反原発」の表明、たったそれだけで社会へ大きな影響を与えられる力を宗教家は持つのです。それは多くの人々が望んでも持ちえない力です。どうかイノチを守る為に「反原発」の声をあげて下さいますよう、出来るなら行動して下さいますよう、伏してお願い申し上げます。
高野山真言宗僧侶 羅入
原発、放射能の危険性が分かっているのに、
唯一の被爆国なのに、
大きな地震が起こり易い国なのに、
原発という爆弾を手放さない、この国。
事情や理論があったとして、頭の良い人たちにそれをぶつけられても、僕はそこまで頭良くないので、理論で対抗出来ません。
そういうのは、頭良い方々に頑張ってもらえればと思います。
でも、その代わりに、僕は音を鳴らしたり、絵を描いたりの表現をする事が出来ます。
これは難しい理論では無く、ただ"想い"の行動です。昨年8月、震災直後には避難所になっていたという福島県立美術館に行きました。
そこには、避難していた沢山の子供達がクレヨンで描いた言葉や絵がありました。
それは理論、理屈抜きの純粋な"想い"の表現でした。
ラジオや噂話などから流れる情報と疑問の中、盲信や執着や猜疑に迷う大人達の中で、ただ純粋に描かれた"想い"の表現でした。東京で暮らしながらも、強く胸を打たれたあの"想い"を、私は忘れません。
理論では無く"想い"の行動で、表現出来る場として、賛同致します。
ホンダリョウ(音楽家、画家、役者)